30歳、それはあまりにも残酷で、失望に溢れ、それでも希望を抱き続けることのできる年齢だと思う。
3ヶ月前、30歳になった僕はそのように思う。
20代前半の時、こう思っていた。
『本当に30歳ってやってくるのかなぁ?全然イメージ湧かへんなぁ』
これは別に冗談ではなく、割と本気で思っていた。
『イメージが湧かない』
これは当たり前と言えば当たり前だと思う。
人は自らがやってみて、体験して、それからじゃないと何もイメージできない生き物だから。
そして僕は3ヶ月前、30歳になった。
30歳になって3ヶ月が経った。
本当にやってきた。
30歳は本当にやってきた。
嬉しい気持ちなんて全くない。
30歳はあまりにも残酷で、失望に溢れ、それでも希望を抱き続けることのできる年齢だと、真剣に思う。
30歳、何もないことに驚愕の日々
人それぞれ、感じ方は違うと思う。
でも、30歳になり、このように思う人は多いんじゃないかと思う。
何もない
『自分、何もない』
残酷で、残念で、でもこれが事実であり、リアル。
『何もない』
20代前半の時、自分には『何もない』なんて、感じたことはなかった。
多分、このブログを見た20代もピンとこないかもしれない。
でも、30歳になったら思う。
何もないことに対する驚愕。
自分は一体今まで何をしてきたんだろう。
残ったのは少しばかりの人脈
20代は食事の場やお酒の場を通じて本当にたくさんの人に会わせていただいた。
これは本当によかったと思う。
今でも多くの方の力を借りながら、仕事をし、生きられていると思う。
残るものは、特にない
でも、結局、最終的に残るのは、そんなに多い人脈ではないと、30歳になった僕は思う。
毎回同じ人と飲みに行き、社内の人と飲みに行き、同じお酒と食べ物を食べ、酔い、特段自分のレベルアップに繋がることはせず、1日を終えていく。
確かに、それで仲の良い仲間はできるかもしれない。
でも、30歳になった今は思う。
残るのは少しばかりの人脈だけで、それ以上は特にない。
自らの人生について考えない自分
『スキルアップ』『自己成長』『キャリア』
よく聞く言葉である。
ただ、これらは、びっくりするくらい、他人から聞いた程度では頭に残らない。
意識しない。
何も危機感を感じられない。
もちろん、本で読んでも、動画で見ても、セミナーで聞いても、わからない。
自分事化することは不可能
当事者として、自分のこととして捉えることはほぼ不可能である。
だから、毎日同じ人と飲みに行き、気持ちよくなって1日を終える。
でも30歳になった今だから思う。
本当に、本当に、本当に、自分のことは自分で考えた方がいい。
キャリアとか、そういうことじゃなくて、自分の人生、本当に自分で考えた方がいいと思う。
人間、他人には興味なし
なぜなら、自分以外の人は、自分に全く興味がないから。
人間は、びっくりする程他人に興味がない。
これは断言する、人間、他人には本当に興味がない。
1ミリも興味がない。
だから、会社が自分のことを考えてくれる、上司が自分のことを考えてくれる、そんな考え今すぐ捨てた方がいい。
すぐ捨てられるなら苦労はしないけど、『あぁそうか』くらいには思った方がいい。
自分のことは自分で考えるしかない
スキルアップも、キャリアも、お金のことも、人間関係のことも、自分のことは自分で考えるしかない。
20代で自分の人生について考えるのはもしかしたら難しいかもしれないけど、嫌でも30歳はやってくる。
必ず。
法人は最も残酷な人格の持ち主
僕は、会社というものは概念にしか過ぎないので、『会社』と呼ぶのではなく、『人物名』で呼ぶべきだと考えていた。
例えば、『会社うぜぇ』と言うのではなく、『◯◯さん(人物名)うぜぇ』と言うべきだと。
『会社の方向性が…』と言うのではなく、『◯◯さん(人物名)の方向性が…』と言うべきだと。
でも、これはどうやら違うということに気付いた。
『会社=法人』とは一体何なのか?
なぜなら、会社組織である『法人』は、もはや社長でも、副社長でも、取締役でも、部長でも課長でも1年目の新卒社員でもなく、その誰にも該当しない『法人』という、目に見えない人格と、執行能力を保有してしまっているから。
もうちょっと言うと、自分で会社を作り、自分の会社を持つと、それが仮に自分100%株保有の会社であったとしても、会社から社長(自分)に給料を払わないといけない。
(売上0や会社からの貸付にするケースなどは置いておいて)
自分1人会社であり、自分100%株保有であり、特段誰のものでもない。
自分以外は自分の会社経営にタッチしていない。
つまり、会社=自分である。
このような状況でも、会社は社長に給料を払うことになる。
会社=自分なのに会社から自分に給料払うってどういうこと?
サラリーマンであれば、サラリーが入金された銀行口座に入っているお金を引き出し、机の上に置き、自分で自分に、1人で『はい、これあなたの給料』と渡すのと同じようなこと。
こんな冗談みたいなことある?
普通に、ない。
でも、会社という法人格がこの世に誕生した時点で、その人格は『自分とは全く別の意識を持った目に見えない人格と執行能力を保有する』ことになる。
これは、非常にやっかいである。
やっかいどころか、社長にとっても曲者になるし、従業員からすると、ある種強敵になる。
なぜなら、残酷ながら、法人は従業員に対し、徹底的に『成長機会の芽を潰してくる』から。
法人の残酷さは人間個人とは比べ物にならない
社長は人間だ。
副社長も、取締役も人間だ。
だから、その人達が従業員の成長を考え、スキルアップの機会を与え、親切丁寧に接してくれたとしても、その上位に君臨する、『法人』は、もはや人間個人と比べ物にならない残酷さと冷徹さを持ち備える。
社長=人間個人よりも強い法人
どれだけ社長が従業員のためを思って『こうしたい』と思っても、言っても、法人に敵うことはないし、法人に逆らうことはできない。
法人は、徹底的に従業員の芽を潰す。
成長機会を取り上げる。
成長機会なんて絶対に与えない、強い力を持っている。
逆らうことは不可能。
法人は魔神と言っても過言ではない
なぜここまで法人は残酷で、冷徹で、力を持っているのか?
それは、法人には成すべきことがあるから。
世に誕生した以上、成さないといけないことがあるから。
言わば、法人とは、それだけを追い続ける、もはや魔神と言っても大袈裟じゃない。
成すべきこととは、言わずもがな、わかると思う。
法人からすると従業員の成長機会なんてクソくらえ
法人目線で考えると、従業員の成長機会なんてクソくらえ。
不必要もいいところ。
なぜなら、従業員の成長よりも優先しないといけないことがあるし、むしろ従業員に成長してもらったら困るから。
そして、その法人に、もう逆らうことを止めた経営者は、従業員に全く成長なんて期待せず、『誰でもできる』、『常に代替可能な』仕事だけを準備する。
当たり前だ。
だって、どう考えても、それが水の流れに身を任せ、不必要な体力を消耗しないための合理的なやり方だから。
そこに無理やり割って入り、水の流れに逆らおうとすることは、社長にとっても従業員にとっても尋常じゃない労力を要する。
だから、気付いたら30歳になり、何もないことに驚愕する日々を送ることになる。
会社は人を雇用し続けることが不可能
もう、かなりの限界にきていると思う。
日本という国では、全ての水準が上がり、クオリティが高く、商品も接客も、全てが神がかり的に素晴らしい。
もちろん、それらの基盤になるのは『人』であることは疑いようのない事実。
コストと支払いの限界
でも、考えてみてほしい。
それだけのクオリティを提供する『人』に、どれだけのコストがかかる?
僕たちは常に良いサービスを求め続ける。
でも、それらを提供する『人』に、どれだけのコストを要するか?
想像するだけで、ぞっとする。
僕が経営者なら、吐き気が止まらない。
つまり、もう、会社という法人が、素晴らしく高いクオリティを提供する、素晴らしい従業員達に対して、それに見合った高い高いコストを払っていくのはもう限界ということ。
払い続けるのはもう限界。
根本的な構造的限界
だって、ここまで読んだならなんとなくわかるでしょう。
社長が払いたいと思っても、法人がそれを許さない。
法人がそれを許さない、つまり許可しないということは、もうそれは『根本的な構造的限界』にきているということ。
もう、無理。
頑張っても頑張っても、無理。
なぜなら、構造的に限界がきているから。
だから、法人は、従業員の成長は望まない。
望むのであれば、雇用し続けるのは難しい。
これが終身雇用の崩壊であることは周知の事実。
終身雇用云々以上に深刻な構造・システムの崩壊
『終身雇用?そんなこと別に今更言うことじゃないでしょ』と簡単に片付けるのは待ってほしい。
ちょっと待ってほしい。
これは本当に本当に本当に大きな問題なんだ。
なぜなら、『終身雇用』という言葉以上に、そもそもの、世の中の構造、システムが崩壊してきているから。
マンションを支えている鉄骨が1本、また1本と折れ始めているってことなんだ。
恐ろしくないか?
もっと言うと、日本という島国を支えている地盤が、奥の方からガガガガガと崩壊していっているってことなんだ。
もはや死に体じゃないか。
それに気付かないといけない。
仮にここまで読んだ人なら、相当な変わり者だと思う。
でも、もしかしたら、何かを感じてくれたかもしれない。
20代の自分、目を覚まそう
一度、冷静になって考えよう。
僕は3ヶ月前、30歳になった。
そして、30歳になると、自分には何もないことに驚愕しながら日々を過ごしている。
本当に、本当に、本当に、恥ずかしい限りだと思う。
本来、こんなこと誰にも言えない。
でも、声を挙げないと、もっと恥ずかしい人になると思ったし、未来の自分が今の自分を見た時に後悔しそうだから。
目を覚まそう
だから、驚愕しているから、こうして驚愕していることに対して、ブログを書いている。
一心不乱に、誰の目を気にすることもなく、単に手が動く限り書いている。
狙いなんて何もない。
だからこそ、本当に心の底から言いたい。
20代の自分、目を覚まそう。
30歳は、本当に残酷で、失望に溢れる年齢だ。
20歳の自分、21歳の自分、25歳でもいい、できることなら、戻ってそれを伝えてやりたい。
過去の自分を説得するのは無理
過去の自分に伝える、こんな無理なことを言ってもしょうがないと思う。
それに、仮に過去の自分に伝えることができたとしても、かなりの確率で、昔の自分は『何を言ってんだ?』と言うと思う。
どれだけ力説しても、響かないと思う。
だって、今が楽しいし、仲間がいて、仕事が楽しく、お酒を飲みながらタバコをふかすのが何よりの快楽だから。
『今が楽しくて、何が問題あるの?』
そう思う自分を説得するのは無理だろう。
それに、説得する必要もないと思う。
結局は気付いた時が全て
人は他人に全く興味がない。
また、自分も他人の意見に全く興味がない。
だから、どれだけ人から、
『スキルアップのために時間を使えよ』
『タバコなんてやめろよ』
『勉強しろよ』
『将来困るぞ』
と言われても、『はいはいそうですか』と聞き流す。
真剣に聞いたとしても、次の瞬間にはもう意識からは消え去っている。
自分で気付くしかない
だから、毎日タバコを吸い、同じルーティンで仕事をし、夜は同じ人と、同じ酒を飲む。
これを人の意見で変えることは困難であり、ほぼ不可能。
だから、自分が何かに気付くタイミングに賭けるしかない。
それが20歳なのか、25歳なのか、30歳なのか、50歳なのか、またまた10歳の時なのか、もうそれは誰にもわからない。
誰から何を言われるでもなく、
『これ、このままだと普通にやばいな』
『あ、おれ、このままだと死ぬな』
『あ、タバコって無駄だな』
『あ、おれ、何もないわ』
と思う瞬間を待ち、キャッチするしかない。
それが自分のスタートラインになると思う。
高尚な考え方はもういらない
20代前半の時、やたらと『考え方』について思考した時期があった。
たくさんの本を読み、色んな考え方を学び、自分に入れ込み、自分なりの価値観を形成していったように思う。
これは本当によかったと思う。
全く無駄だとは思っていない。
ただ、あれから時間も経ち、そもそもとして、『時代や世の中』が変わったように思う。
高尚者<<実践者
具体的には、これだけ情報がオープンになり、お金をかけなくても学ぶことができ、実践者が圧倒的に恩恵を受けるような時代、世の中に突入している。
何かを学ぶために学校に行ったり、スクールに行くのもいいけれど、別にそんなかったるいことしなくても、無料で学び、実践し、恩恵を受け取ることができるようになってきている。
つまり、実行に移していない、単なる『高尚な考え方』はもう価値がなくなってきている。
別に、自分なりの価値観と、自分なりの考え方をなくす必要はない。
常に、強く、しっかりと持てばいい。
でも、それを対外的、社会的価値として発揮するのはもう難しくなってきているということ。
『で、なに?』
『で、なんなの?』
これに答えられない、示すことのできない高尚な考え方なんて、もう僕は不要だと思う。
したい<<する<<した<<できた
『経営者視点を持ちたいです』
持てばいいじゃん。
『マーケティングを学びたいです』
学べばいいじゃん。
『成長したいです』
だからなに?
もう全てが一瞬で実行に移せ、そしてアウトプットを短期で得られるようになってきている。
だからもう、単なる考え方なんて必要ない。
そんな素晴らしい考え方を持っているなら、黙って実行に移そう。
月並みだけど、実践者であり続けるしかない。
30代は希望にも溢れている
ここまで思ったことを何も考えず書き、どれだけ30歳になった自分に驚愕しているかを書いてきたわけだけど、とは言え失望ばかりしているわけではない。
30歳、それは希望に溢れる年齢でもあると思う。
実際、僕には今年6歳と5歳になる息子がいる。
今年、来年、再来年と考えると、希望に溢れ、可能性しかないように思う。
それに、30代というのは、できることがぐんと増える年齢でもあると思う。
光と影の異常なまでの交錯
会社で言うと、ある程度の決済権を持って働けるようになったり、サラリーで言うと、600万、800万、1000万に到達する人も十分出てくると思う。
当たり前だけど、300万と、800万ではできることが違う。
だから、そういう意味で、30歳は希望に溢れる年齢だと思う。
だからこそ、残酷で、失望に溢れ、ショッキングな年齢でもあると思う。
光と影が異常なまでに交錯する、それが30歳。
僕はこの内容を20歳の自分に伝えてあげたい。
でも、それは無理。
それに、伝えたとしても、20歳の自分を説得することは不可能。
説得する必要もない。
だからこそ、この『構造的問題』に気付いた今、本当に強い危機感を感じ、黙々と自分のやるべきことをこなすだけだと思っている。
僕はまだ30歳、後5年経っても35歳。
35歳はまだ何でもできる。
10年経っても40歳。
40歳、まだできる。
だからこそ、過去なんて振り返らない。
過去に対し思うこともあるけれど、特に後悔なんてない。
もう、見ているところは35歳だけ。
後5年。
5年後だけを見据えて、自分のやるべきことを淡々とこなすだけ。
その決意が、タバコをやめ、お酒をやめ、自分に連続的な変化をもたらした。
最後に
最後に、ここまで色んなことを述べたけど、この『構造的にそもそもどうしようもない問題』のことを、働く上で僕は『サラリーマン無理ゲー論』と呼んでいる。
凄くたくさんの人を敵に回しそうな言葉だし、いきなり意味のわからない言葉だと思うけど、僕はサラリーマン無理ゲー論について、いかに無理ゲーかを人とぶつけ合うことが大好きである。
なぜなら、無理ゲーであると自分が認識すればする程、もはや悲観的になる必要もないくらいに方向転換を余儀なくされるから。
もはや、清々しい。
『あぁ、こんな無理ゲーの中で生きるって、ある種面白いな』と。
だから、今日も学び、実践し、会社=法人に対してではなく、『自らの顧客』、そして『世の中』に対して価値を提供していくことを考える。
それが、何よりも、会社=法人に対して自分がすべきことだと思うから。
御礼
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
本当に、恥ずかしい内容だったと自分で思いますが、自分が今思っていることのリアルなので、まぁそれも致し方ないかなと思います。
自分の問題、今までの生き方、顧客や世の中に対して提供する価値レベルの低さ、それらに対して真剣に問題意識を持っていますが、とは言え悲観的には全くなっていないですし、なる必要もないかなと思っています。
なぜなら、悲観的になり、未来のことを考えないことこそがサラリーマン無理ゲー論にジャストで乗っかっている考え方だと思うからです。
そんなイケてないビジネスマンにはなりたくない。
それは避けなければいけない。
なので、強い問題意識を持ちつつ、陽気に、常に前向きに精進していきたいなと思います。
改めて、ここまで読んでいただきありがとうございました!
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